2010年06月12日

佛教が苦手な社会科の先生のための佛教講座

先日、知り合いの先生に居酒屋でこんな相談をされたわけです。

先生「歴史の授業で今度、鎌倉仏教やるんですけど、
その中で<善人なほつて往生をとぐ、いわんや悪人をや>ってのが出てくるんですけど・・・
あれって子供たちにどういう風に説明したらいいんですかねえ?」

黒骨「よし、まかしとけ!」
と酔ってて、いい気分だったもんですから、
調子に乗って三十分くらいマシンガントークかましたわけですよ。そしたらね。

先生「いや、よ~く分かりました、でも・・もういいです。」

黒骨「おう!良く分かったか!コノヤロー」

先生「あの・・・、良く分かったんですけど、その説明では、ちょっと子供たちには難しいかしいんじゃないかと・・・。それとあくまで社会科の授業ですので・・あまり宗教的な話は・・・」

黒骨「も~う!こんだけしゃべらせといて何だよ!!文句いうな!
文句あんなら、俺じゃなくて、もっと、ちゃんとした坊主に聞けよ。」

先生「はい。黒骨さんがちゃんとしてないことくらいは私も分かってますよ。」

黒骨「おい!聞こえてんだよ!てめえ!なめてんのか?」

先生「ただ・・、子供たちに分かりやすい説明となると、
逆に黒骨さんくらいでちょうどいいじゃなくて 黒骨さんじゃないと思いまして・・すみません」

黒骨「お前・・昔から失礼なくせに、絶妙なタイミングで すみませんって言うよなあ・・・ずるいよなあ・・」

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ということで・・・今回のミッションは後輩からの依頼でございます。かっこよく決めたいのは山々ですが そうはいかないのが あたいのポテンシャル!

今回も例によって、完全な解説はハナから諦めております。
あくまで 読んで下さった方に、わかったつもりにだけなっていただきましょう!!

以下のことをコンセプトにいかさせていただきます。

今回のお題は歴史の教科書にも出てくる割りに、誤解されやすい鎌倉仏教 親鸞さまの有名な
<善人なほつて往生をとぐ、いわんや悪人をや> 
いわゆる<悪人正機>ってやつの構造を ガキにもわかる例えなるべく細かい宗教的な表現や要素の説明を省いて あたしごときが説明させていただこうと思います。

*はじめに断っておきますが* 
本来この言葉は 短い文章とは裏腹に かなり多くの事柄を理解しないとその正確な意味は味わえないのものです。
ちゃんとしたことが知りたい方は ちゃんとした僧侶の方にお聞きになってください。

それでは はじまり はじまり///
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【わかった気になるためのその1】

まずあらためて
<善人なほもつて 往生をとぐ、いわんや 悪人をや>
を簡単に訳してみましょう。すると・・・

「善人が極楽浄土に往けるんなら、悪人は極楽に往けるのはいうまでもない」
ということになります。

これをさらに並べなおしますと

「悪人の方が善人より極楽にいきやすい」
となります。

世間的に考えますと やはり、これだけではかなり意味不明なことになりますね。

ですが、これに一つマジックワードを補足するとかなり分かりやすくなってきます。
その語とは 前回の記事で書きました「自称」でございます。早速足してみましょう。
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<自称善人>なほもて 往生をとぐ いわんや悪人をや」
<自称善人>が往生できるなら、悪人はなおさら往生できる)

どうです。なんとなく、分かりやすくなってません?
勘の良い子供ならこれで納得してくれるかもしれません。

が これだけでは少し不親切ですので さらにもう一工夫してみましょうか?

とその前に ここで すこし気分を変えてみましょう。
(先を急ぐ方は<その弐>へお進みください。)

【わかった気になるハーフタイム】

実は 親鸞さまのこの言葉、こんなイメージを持っていると 理解することが難しくなります。
どんなイメージかと申しますと

<閻魔さま又は、裁きの神みたいなのがいて 裁判所みたいなところに人を立たせ 生前の暮らしぶりの善悪を裁く>

正直、破戒僧としましては、こういうイメージを始めに持たれるとかなりやりにくいんですよ。ですから、もし、こんなイメージを持っている方がありましたら、とりあえずそのイメージを消しといてください。

「じゃあ どんなのをイメージすればいいんだよ!」ってことになるかと思いますが

あたしなりに色々考えた結果、

<フグ>なんかをイメージするのがいいんじゃないかな?」と思うんです。

<フグ>っていっても 踵落しの得意な<青い目の侍>

Fugu01

アンディー・フグじゃあないですよ?

Fugu_02

そうそう!魚のフグです。

フグについてネットでちょいと調べてみますと こんなことが

毎年、全国で20~30件のふぐ中毒が発生し、死亡者も後を絶ちません。その多くは、素人が、釣ったふぐを家庭で調理して起きたものです。だそうです。

以上を踏まえた上で以下のクイズにお付き合いください。

[問題] ここに二つのグループがあります。

aグループ:<免許はないが、それと同等のフグ調理に関する知識と技術が自分にある>と思っている人たち

bグループ:フグを調理できる知識も技術も無い人たち。

二つのグループを比べると aグループの方が bグループより フグ毒にあたる人が多いそうです。それは何故でしょう?

どうですか?わかりますか?だんだんわかってきたでしょう(笑)
このからくりがわかった そこのあなた 親鸞さんの言葉の謎もすぐわかると思いますよ!!

おや!? そこのあなた!まだ納得できないですか?

「免許ないにしても 知識がある方が、無い人より上手く調理できるんじゃないの?」
とおっしゃるその気持ちもわかります。そう考えられないこともないですね。

ヒント:どちらが上手く調理できるか?という問いではありません!
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はい!・・・っということで、
もし、あなたが、このクイズに頭をひねっていただけたら、あたしの狙ったイメージが皆様の頭の中に出来上がる頃だと思いますので、そろそろ話を本題に戻しましょう。

答えあわせは後ほど・・

【わかった気になるステップ2】

浄土真宗には この<善人なほもつて 往生をとぐ、いわんや 悪人をや>と言う言葉だけでなく
こんな言葉もあります。

「善人なればとて おのれがなすところの善をもつてかの阿弥陀仏の報土へ生まるることかのふべからずなり。
悪人またいふに及ぶ。おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか、あに浄土の生因たらんや。」

適当に訳しますと
「善人であっても 自分が積み上げた程度の善行では 極楽浄土へは往けない。
 だからと言って<悪人が 積み上げた悪行によって 極楽浄土へ往けます。
>なんて甘い話はねえよ!!
 てめえで積み上げた悪業はなあ!地獄往きの切符になることはあっても、浄土往きの切符になるこたあ 無えんだよ!!」
 *黒骨訳

と言う意味です。この言葉を聞かされると

「ちょっと!!何よ!さっき悪人のほうが浄土に往き易いって言ったじゃん!!」

と、矛盾したことを言われたと勘違いして
騙されたとか嘘つかれたと反射的に口走ってしまいそうになります。
が!これら二つの言葉は矛盾していません
今までのことを落ち着いてもう一度、よ~く考えてみましょう。

その1:悪人の方が自称善人より浄土に往き易い。

その2:積み上げた善行では浄土に往けないし、積み上げた悪業でも浄土には往けない。

眺め続けると 今まで見えなかった何かに気付きませんか? 解説はCMのあと!!

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えーみなさん、今回の謎、お分かりになりましたか?
さっそく謎解きをさせていただきます。

<善人なおもつて 往生をとぐ いわんや悪人をや>
黒骨チックに訳しますと<悪人の方が自称善人より往生しやすい>となるわけですが 

あたしはここで非常にひっかかる部分がありまして・・
それは何故ズバっと<悪人は往生するけど、自称善人は往生できない。>と表現されていないのか?ということです。

<悪人の方が善人より往生しやすい>
もし、この<の方が>という比較表現に間違いがないのなら、悪人の中にも往生できない人がいることになりますし、善人も往生するのが悪人より難しいが 少しは往生する人がいるってことになります。

しかし、その2の言葉:<積み上げた善行では浄土に往けないし、積み上げた悪業でも浄土には往けない。>
によって、この疑問がそれほど的外れではないことがはっきりします。

実は 私たちは 一つ大きな過ちを犯してしまいやすいのです
それは
 親鸞さんの言葉を聞いて勝手に頭の中で 

<往生できるのは善人か悪人のどちらかだ!>

<善人・悪人の二択問題だ>と思い込むことです。

先ほどのフグのクイズがわからない方の多くは、頭の中で勝手に思い込んでいるのではないでしょうか?

<全くフグ調理に関する知識の無いグループの方が、免許は無いがそれなりにフグ調理に関する知識や技術のあるグループより、フグ毒に当たらないのはなぜか?>

その答えは、フグ調理に関して無知な人の多くは 自分で調理せず 店に行って食べるから。つまり フグの免許がある人に任せるからです。
免許の無い人間は 普通そうするでしょう。

このクイズの落とし穴は、二つのグループは知識の有無で分けられたグループであるはずなのに、毒に当たるか否かは 
「フグ調理が出来る人に<任せる>か<任せない>か?」
という 初めと別のところにある境目がある、という二重構造です。

実は
<善人なおもつて 往生をとぐ いわんや悪人をや>
もこれと同じような二重構造なんです。

つまり
<善人なおもつて 往生をとぐ いわんや悪人をや>という言葉は
<善人か><悪人か>という分け方をしていますが、それ以外のところに 往生できるか否かを分ける 第二の境目が存在しているわけであります。

ご存知な方も多いかと思いますが、親鸞さまは念仏の宗派の方です。
ですから その生涯において 人にも念仏をすすめられたわけです。

<往生をとぐ>かどうかの境目は 

その人が<善人か?><悪人か?>が問題ではなく、

フグクイズと同じように

<任せきれるか><任せきれないか>が 

往生できるかどうかの境目、ポイントなんです。

では フグの場合のフグ調理師にあたるのは何か?

ということになりますが 

この場合における、フグ調理師の役にあたるもの それは親鸞様が大事にされた
「ナムアミダブツ」

つまり・・・・・・・・・・

「阿弥陀仏」なんです。

それなら何故 自称善人より悪人の方が往生しやすいことになるのか?

ということになりますが、それは、もうおわかりでしょう。

悪人は自分の力では確実に往生できないこと知っているからです。
自分では往生できませんから、悪人の方が自称善人に比べ自分を頼みとしません。
自分を頼みとしない傾向があるので、自称善人に比べたら <阿弥陀仏に任せやすい>ことになり、結果 自称善人に比べて 往生しやすい というロジックになるわけです。

めんどくさくなってバタつきましたが、佛教が苦手な社会科の先生の皆さん!!
とりあえず、以上の解説で少しはお分かりいただけたでしょうか?
この言葉<善人なおもつて 往生をとぐ いわんや悪人をや>がなぜ整合性をもちえるのか その理解の一助になれば幸いでございます。

ここまで話すと それじゃあ 

阿弥陀仏に任せるきるとはどういうことか?

何故任せるか否かで往生が決まるのか?

という新たな疑問が沸いてきますが、それを話すと長くなるので・・そのお話はまた今度ということで・・

以上、黒骨でした。

ps:久々の記事を書きあげ 久々の充実感を味わえると思って見ましたが 読み直してみて久々のクレームの嵐に謝罪しまくりな予感がビンビンきてます。久々の脇汗。
おかしなところは随時書き直していこうとおもいます。

2009年06月22日

<タイガーマスク>好きの為の佛教講座

一人の坊主として そして、かつて タイガーマスクに心躍らせたプロレスファンとして この記事を二代目タイガーマスクこと、三沢光晴さんに捧ぐ・・

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「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」歎異抄

「何故ちびっこハウスの子供たちが 私に懐いてくれたのかは わたしには未だに不思議で理解できないことだが その子供たちの心に対し 私の中の疑いの心が絶え果て 代わりに人間らしい喜びの心が満ちあふれた。 そして、そんな人間らしい心をもらった私が この子たちの幸せを願い 自然と「彼らの幸せを祈ろう」という心がおこった時、私は今までの ひねくれただけの心から一生決別し、間違えなく子供たちのヒーローになるべき道の第一歩を歩んだ」byタイガーマスクこと、伊達直人

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うちの御開山 親鸞聖人の浄土真宗の教えは今現在、何かと誤解されることが多い宗派でございます。特に「念仏」、「他力」、そして 独特の信仰の構造・・・etc.。他宗教や他宗派の方が誤解されるのは致し方ありませんが 浄土真宗のお家の方にも間違えられることの多い教義でございます。

そんな愚痴はさておき・・

先日、二代目タイガーマスクこと、三沢さんが亡くなられたニュースを知り、あたしなりに喪に服すべく 三沢さん関連のユーチューブを見まくって おりますとこんな動画にたどり着いたわけです。

   

↑ これは かつて三沢さんもかぶってらっしゃった タイガーマスク、そのアニメ版のエンディングでございます。

見れない方のために 歌詞を

♪ 暖かい人の情けも 胸を打つ熱い涙も 知らないで育った僕はみなしごさ・・
 
強ければそれでいいんだ 力さえあればいいんだ
 
ひねくれて星をにらんだ僕なのさ
 
あ~あ だけど そんなボクでも あの子達は慕ってくれる
 
それだから みんなの幸せ祈るのさ 

勇ましいopテーマと対照的な、このエンディングを見ていて ふと、無駄に坊主のアンテナが反応してしまったわけです・・・・・。これも性ってやつでしょう。

Taiga01_2

Tig02_4

というわけで・・・

浄土真宗における <信仰の構造>、<念仏>、<他力>と言うものの一端を説明したいのですが、あらゆるゆる方の誤解を解くほどの力のない半端坊主といたしましては 悲しいかな、いつものように ごく一部の人に限定してしか説明できそうにありません。
んでもって 今回のテキストは ご往生されました 三沢さんもかつて被っていた「タイガーマスク」の元となったアニメ版と漫画版の「タイガーマスク」でございます。よってターゲットはこの作中のタイガーマスクの生き様を何となくでも理解できる方になってしまいます。
タイガーマスクを知ってるけど、「彼の生き様は意味不明」という方、もしくは 全くタイガーマスクに興味のない方には非常に難解な文章になること必至でございます。あらかじめご了承ください。

というわけで・・・はじまり、はじまり

「タイガーマスク」とは「巨人の星」や「空手バカ一代」などで有名な巨匠、梶原一騎さんの作品であります。坊主といたしましては、この作品の主人公:タイガーマスクこと伊達直人は、普通のヒーロと違う非常に気になる一面を持った主人公なんです。

さっそく、どの辺が特徴的なのか あたしの私見を交えこの作品のあらすじを振り返りながら見ていきましょう。

<タイガーマスクあらすじ>*黒骨訳
孤児院<ちびっこハウス>の伊達直人は、みなしごゆえ、温かい人間の愛情やぬくもりに飢えた少年でした。満たされない心を抱えたかれは ある日、たまたま動物園の「虎の檻」の前で喧嘩をしていたのをきっかけとして、悪役レスラー養成機関「虎の穴」にスカウトされます。
幼い伊達直人くんは 「お金や力さえあればきっと 苦しい境遇から抜け出せる、さびしいこの心もきっと満たされる」そう信じて 地獄のトレーニングに励み、一人前の悪役レスラーになる決意をするわけです。

数年後、晴れて立派な悪役レスラー「タイガーマスク」となった伊達直人くん。しかし、お金と力を手に入れたというのに さびしい心はいっこうに満たされません。それどころか、よく考えてみると 人の情けも熱い涙も知らない 人として大事なものがかけている自分自身という存在を思い知らされます。
幼い頃から 泣きながら満たされない何か掴み取ろうと頑張って やっと手に入れたもの と引き換えに 彼は 情けも涙も知らない 人として大切な何かが欠けている人間になってしまったことに気付きます。
しかし、今更そんなことに気付いたところで 時間は戻ってはきません。    
「おれのしてきたことは 間違ってない! そうさ!強ければいいんだ!力さえあればいいんだ!」そう強がってみせながら、彼は 一人ぼっちで 泣きながら ひねくれ 世を恨まずにはおれませんでした。そんなやさぐれた彼ですので 多くの人々は恐れ、近寄ってはくれません。
ところが不思議なことに、そんな嫌われ者の彼、開き直って「どうせ俺は嫌われものだよ!」と公言していたであろう彼なのに どういうわけか  みなしごハウスの子供たちだけはなついてくるわけです。戸惑う伊達くん。
「んん!?嫌われ者のおれが 懐かれてる?? いやまて!そんなはずない!どうせ このガキたちは おれの金目当に決まってる、だまされねえぞ!」
ひねくれ過ぎていた彼ですので はじめはきっと素直に信じることが出来なかったことでしょう。しかし、子供たちと触れ合っていくうちに、彼は子供たちが心から彼を慕い、懐いていることを 確信するようになります。

そして この時、この子達から 生まれてこの方一度も味わったことの無い<人のぬくもり>や<やさしさ>もらい、「おれが長い間求めても得られなかたものは きっとこれだったんだなあ」ただ感動し、ただ驚くのです。

そしてこの直後、人の幸せなど祈ったことのない彼ですが そんな自分が いつの間にか そんな風に接してくれる子供たちの幸せを祈らずにはおれなくなっていることに気付くのです。
かれは次第に 自分と同じような生い立ちを持つこの子供たちに、同じような苦しみを味わわせたくないという想いを抱くようになります。(ED動画よりの歌詞参照のこと)

<虎の穴>卒のプロレスラーは ファイトマネーの半額を上納金として支払い、残りが手取りとなる給料体系でした。ですので、はじめは自分の手取り分の範囲内でちびっこハウスへの援助を考えていた伊達さんでした。
が、孤児院の窮状を知り、虎の穴へ納める分まで寄付せざるを得なくなってしまいます。
上納金をパクられた<虎の穴>はそれ以後、タイガーを裏切り者とみなし、「裏切り者がどんな末路をたどるか」を他の所属レスラーに思い知らすという意味も含め、タイガーを公開処刑にするべく次々と刺客レスラーを対戦相手としてリングに送り込んでくることになります。

マスクを被ってますので伊達さんがタイガーマスクであることを 子供たちは知りません。
ですから<虎の穴>で培った悪役レスラーのスタイルで戦っても問題は無いのですが、どうせ裏切り者となるなら、せめて「ちびっ子ハウス」の子供たちに恥じない戦いをしたいと、正統派スタイルへ転向を決意します。

しかし、当初は、身についた悪役ファイトが抜けきれず、また正攻法では大物レスラーを相手に通用しないので、苦闘が続きます。
レフェリーの目を盗んだ喉笛へのトウキックなどの隠し技を使うこともしばしば・・・・
そんなこんなで、彼は悪役スタイルと正統派でありたい意識の中でながく葛藤し続けながら戦うのでした・・・

とまあ・・こんな感じのお話でございます。

早速、あたしが気になった点を三つ挙げてみますと

①「彼の戦う理由」②「伊達直人の祈り」③「正統派になったり、なれなかったり」

これら三つのポイントなんですけど、これらのポイントは浄土真宗の特色と非常に似通ったところあるんです。*(憶測ですが それは 偶然にも 親鸞さまと 伊達直人さんの人生が似通っているからではないかとあたしはにらんでいます。)

それでは かなりこじつけな感があることは否めませんが これらのポイントと浄土真宗の特色とを見ていこうと思います。

その1・彼の戦う理由
普通、ヒーローってのは、「悪者を倒したい」とか、「平和を守りたい」とか、「最強になりたい」など という動機を持ち 途中挫折しそうになりながらも これらの目的に向かって 努力や根性をもって突き進んでいくのが王道じゃないかとおもうんですが
タイガーマスクこと伊達直人さんは そんな目的があるわけではありません。
彼の目的は、しいて言えば 満たされない心を満たすことだったわけですが ちびっこハウスの子供たちによって既に彼の心は満たされているので 今更それを求めて戦っているわけではありません。
また 彼は、一見、子供たちのために戦っているように見えますが 子供たちには 自分がタイガーマスクだとばれていませんので わざわざ 慣れない正統派のスタイルで戦うことは 単に子供たちを守る行為とも違います。
彼が正統派レスラーとして戦う理由を あげるとするならば・・・
それは子供たちからかけがえのないものをもらった一人の人間として、誰が見ているとか見ていないとかではなく、彼なりに何かせずにはおれなかった。その「何か」が彼の場合「正統はレスラーとして戦う」ことだったわけです。
ですから、正統派レスラーとして戦うことは 彼にとって 強制されたものでなく、義務でもなく、責任でもありません。それは「恩に報いる」ような感覚のもの、「させていただく」的な行為なわけです。つまり

よくあるヒーロー:大切な何かを得るために戦う
タイガーマスク :大切な何かを得たので 戦わせていただく

となると思うんです。

実は ここの部分は<浄土真宗における念仏の受け止め方>というものと酷似している思います。
ほとんどの佛教は悟りを得るために修行します。
ですので 同じような観点から 念仏も一つの「行」として誤解されることが多いのです。
ですが、浄土真宗における念仏とは あくまで感謝の発露(「有難いなあ」と言う気持ちが表にでたもの)であって、何かを得るための行ではありません。

ときどき
「念仏って何回称えたらいいの?」とか「称えたらどんな良い事があるの?」
と訊ねられることがあるとあたしは
「そんなんじゃないよ」と答えることにしています。

何故なら、この質問は 伊達直人さんの事情を良く知らずに
「何回、正統派レスラーとして戦ったら どんないい事があるの?」
と訊ねているのと全く同じことだからです。。

タイガーマスクの戦いを
「大切な何かを得たので 感謝の戦いをさせていただく」
と表現するならば

浄土真宗の念仏は
「大切な何かを得たので、念仏させていただく
とあらわすことが出来ると思います。
共に感謝したうえでの報恩の行為なわけです。


その2・伊達直人の祈り

心を満たされた伊達さんは 子供たちの幸せを祈っています。
それまでの人生で散々孤独を味わい、世間をうらみ、自分に絶望した彼ですので 誰かの幸せを祈ろうなんて優しい心は 彼一人をどれほど長い時間ほったらかしにしたところで彼の中から自然に湧き上がってくるものではありません。
だとすれば、それは 彼の中に無かった心、外からもらった心と表現できると思います。
つまり「この子供たちの幸せを祈ろう」とする優しい心は 子供たちからもらった心なわけです。
また 彼は 彼が祈るより先に既に子供たちに 慕われているのですから この祈りは「子供たちから慕ってもらいたいから」と言った下心があって祈っているわけはありません。
子供たちから 欠け換えの無いものを貰った彼は いつの間にか そうせずにはおれない人間に変わっていったといえるのではないかと思います。

 子供たちの幸せを願おうとする「心」は
普通の場合  :自身の中にある優しい心が子供たちの幸せを祈る。
伊達さんの場合:自身の中にあるはずの無い優しい心が自分に子供たちの幸せを祈らせる。

この↑ポイントその2ですが ここの部分は <他力というものの一面>をよくあらわしていると思います。

浄土真宗の「歎異抄」という書物の中に
「念仏は行者のために非行・非善なり。」
(念仏は、これを称える行者にとっては、<修行>でもなく、<作善>でもない。)
という言葉があります。「何故 非行・非善なのか?」と申しますと・・

それは、浄土真宗では「自身の中にあるはずのない尊い心が わたしに念仏をしようと思わせ、念仏をさせている。」と見ていくからです。
伊達さんが自分のひねくれた心ではなく、子供たちからもらった心によって 子供たちの幸せを願い、祈っている。のと同様です。
浄土真宗では この「自身の中にあるはずの無い、尊い心を私に届けてくれた何かしら」を阿弥陀如来と呼び 礼拝の対象にしています。
「一見、自分の思いで念仏しているように見えるがそうではない。 阿弥陀様から頂いた心が私に 念仏をさせているのだ」ということから 浄土真宗の念仏は 他力念仏と言われます。

その3・子供たちの心に触れたとはいえ 正統派レスラーになりきれていない
よくあるヒーローならば、パワーアップしたり、正義の心を取り戻したりすると 目に見えて服装のデザインなんかが一新され、この先もう パワーダウンすることはないのが漫画の王道ですが、タイガーマスクの場合 その辺の軸がぶれまくっています。正統派と悪役を行ったり来たりしてるんです。
あらためて 彼の身の上に起こった変化を考えてみると、それは

<ひねくれ者>+<欠けがえのない心>=<かけがえのない心をもらったひねくれ者>
という変化です。それまでの彼がどこかに消えてなくなったわけではありません。

これと似通っていますが、
阿弥陀如来の働きを信じて念仏すれば この世で生きながらにして仏になれると 解釈をされる方もありますが 親鸞聖人さまの場合は

浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし

という言葉にその解釈がよくあらわされていると思います。

世の無常と苦しみを体感された八歳の親鸞さまは 世俗を離れ、悟りを求めるべく仏門に入り、ほどなくして比叡山に登られ修行されます。そして、二十年もの間修行されたのですが ご自身に絶望されます。何故なら 二十年修行して 明らかになったこと、それは 修行しただけ 悟りに近づいた自分の姿ではなく、悟りからほど遠い、おぞましい本性を持つ自分の姿だったからです。
失意の親鸞様は 比叡山を下りて、法然さまにお会いになり そのような悟りに遠い自分をも 浄土に導き、悟りに導かんとする仏の働きを知らされます。そして、その働きを実感し、感謝され 大いに驚かれるのです。
しかし、そのような喜びを知ったとはいえ 自分は仏になったわけではなく、どこまでいっても<凡夫>から<浄土に導かれる喜びを知った凡夫>に変わったに過ぎないことを自覚されます。

ですから親鸞様もタイガーマスクと同じように かけがえのない心をもらったとは言え 仏さまになったわけではありませんので 自身の煩悩に振り回されることもあったようです。

はじめに見ていただいたタイガーマスクのエンディング動画。あの歌の内容は 子供たちから優しい心をもらった後の彼の心をつづったもののようなんですが 何故か 曲調はうきうきな雰囲気ではなく どちらかと言えば 悲しい雰囲気です。
それはきっと みんなも同じだと思いますが、過去を誰しも一生懸命に生きてはきましたが その過去すべてが正しかったわけではないことを 誰よりも私自身がよく知っているからではないでしょうか?過去を完全に消し去って生まれ変わるなんて都合のいいものは この娑婆にはなさそうですし、あったとしても 私の手の届くようなところには 決して無いことがこのエンディングにはあらわれているようにあたしは思います。

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というわけで・・ 

以上、三つの点をピックアップし、タイガーマスクをとおして 浄土真宗理解の一助になればと解説してきたわけですが 読み直してみると 全く三沢さんを偲んでないし、 三沢さんの許可も 梶原さんの許可も 親鸞さまの許可も 関係者のだれの許可も同意も得たわけでもないのに われながら 今回も 我の憶測と想像のまじった いい加減な記事をあげてしまったものです。伝道の為に手段を選ばないあたしの悪い癖が出てしまいました。深く反省しております。

これでは あたしは 命終わったそのさきで この三人さんにボコボコにされることが確実ですねえ。(笑)

その時は どうせ やられるなら せめて三沢さんには <タイガーマスク>のマスクをぜひ被って タイガードライバーを食らってみたいと願う、黒骨なのでした。(←きょうのわんこ風のナレーションでお読みください)

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