2008年01月30日

「ほとけ」いう言い方について

けっこう前のことになりますが

「ビッチ(スペル忘れました)」ってロゴの入ったTシャツやなんかが 女子中高生に流行ったことがありましたねえ。覚えてます?

いくらファッションでもこれはねえだろ!

ということで 流行は急速に終息しましたが 

この服を着ていた子たちの多くはロゴの意味を知らずに着ていたようですねえ。

知らないってのは 恥ずかしいことですし、恐ろしいことですねえ・・

こんばんは そんな偉そうな前フリをしつつ 自分は冬の寒い時期、「ただ暖かい」という理由で 「NIKE (ナイキ)」の パクリブランド 「Kiki」(キキ??って読むの?)を愛用しております黒骨です。

そんなことはさておき・・・・ 

うちの宗派には和賛(わさん)ってのがあります。
日本語(和歌)で佛教を讃えたもののことです。

キャラが三国志の曹操の息子と少しかぶってますが・・・

うちの宗派の御開山親鸞聖人って方は かなりの詩人な方で自分の気持ちをうたにして色々と書き残していらっしゃるんです。

だいたいは「佛教ってのは 素晴らしいねえ!!」って内容なんですが 時に こんなことを書いたりしています。

①善光寺の如来の われらをあはれみ ましまして

難波のうらにきたります。 御名をも 知らぬ守屋にて

②その時ほとをりけ と申しける 疫れい あるひは この故と

守屋が類(たぐい)は みなともに ほとをけぞと申しける

③やすくすすめんためにとて 「ほとけ」と守屋が申す故

時の外道みなともに 如来を「ほとけ」とさだめたり

④この世の仏法の人はみな 守屋が言葉をもととして

「ほとけ」と申すたのみにて 僧ぞ法師はいやしめり

⑤弓削の守屋の大連 邪険極まりなき故に

よろずのものを すすめんと やすく 「ほとけ」ともうしけり。

↑何をおっしゃってるのかと申しますと・・・

多くの人が 「如来」のことを 「ほとけ」と呼んでいるが 仏教徒にとって それは

非常に悔しいことであり むかつく!

と おっしゃてるわけです。解説しますと・・

538年、佛教公伝のころ、当時佛教を信ずるべきか否かで 祟仏派の蘇我稲目(そがのいなめ)と 廃仏派の物部守屋(もののべのもりや)に別れ 激しい争いがおこりました。

そんな中、日本国内に疫病が流行って 多くの人が死ぬという事件が起こりました。
廃仏者の物部守屋は その原因を 仏像をまつったので 日本の神様が怒ったからだ!と思い 善光寺の如来に触ったところ 大変熱かったので 「ほとをりけ」がある つまり「熱病がある」と言い、 そこから 如来をそしって 「ほとをりけ」と悪い名前をつけてよんだのです。

*「熱を出す・ほてる」の動詞が「ほとをる」 
「ほとをる」に名詞の「け」(←<寒気>、とか、<マゾッ気>とかの 「け」 です)を付けたのが 「ほとをりけ」です。
意味は 「火のような熱を出す心地」から 「熱病」のことを指します。

この言葉は長いので縮めて「ほとけ」と呼んだとされています。
その後 この言葉が浸透し、佛教を悪く思っていない人までも 「仏(ぶつ)」のことを「ほとけ」と言うようになり、これはやがて 僧侶や法師までもいやしめる悪習へと発展していったそうです。

いやあ あたしは 坊主なんですけど 知りませんでしたねえ・・・
「ほとけ」って言葉にそんな 歴史があったなんて・・・

 明日から「ほとけさま」って言葉 なんだか言いづらくなってきました。

まあ・・読み方にこだわる必要も無いんですけどねえ(笑)

posted by 泣いた赤骨 at 04:17| Comment(40) | TrackBack(1) | 仏教 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
> 管理人様

失礼いたします。
以前、『正像末和讃』を拝読していた際に、ちょっとこの箇所が気になったことがありまして、「ほとけ」という読み方は、そういう経緯だったのか?と、正直、驚いたことがございました。何故ならば、ウチの開祖は平気で「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」(『正法眼蔵』「即心是仏」巻)なんて書いているもので、もしかして「やらかしたのか?」なんて思っていました。この記事で勉強させてもらいましたが、やっぱり、親鸞聖人、何か知るところがあって、御和讃で「ほとけ」についての問題点を示されたのだな、と思った次第です。これ、比叡山でいわれていたのなら、道元禅師も知ったかもしれませんけど、しかし、受容した形跡がないので、親鸞聖人は別のところでこのことを学ばれたんでしょうか・・・それもちょっと気になりました。拙僧も、勉強してみます。
Posted by tenjin95 at 2008年01月30日 11:23
初めて知りました。さっそく私も調べてみました。
こんなサイトがありました。
http://gogen-allguide.com/ho/hotoke.html
ところで、話変りますが、歎異抄を読んでみました。
なるほど、と思いました。
阿弥陀仏がたとえ嘘であっても、もともと、修行が達成できなくて地獄行きの身であるから、それが嘘であったとしても後悔しない、という部分は、前に読んで知っていました。
念仏の喜びを感じられないと悩む弟子に、自分もそうである、でも、本来喜ばしいものであるはずの念仏を、喜べないというのは、それは煩悩がそうさせているのであるから、つまり自分は煩悩多き愚かな凡夫であるという証拠であるから、それはつまり、そんな凡夫を救うという阿弥陀仏の救いの対象であるという証拠でもある、そこに気づけば、念仏を喜べないということにも納得がいく、なるほどそんな自分こそ阿弥陀仏に救われるのは間違いないと思える、という箇所に、なるほどそう考えるのか、と感心しました。
でも、これは、阿弥陀仏の存在とその救いが真実である、という前提て話していることであるので、その前提そのものに疑いを持っている人にとっては、それを読んでも、すっきりできない、という気がしました。
ブログで、浄土真宗の僧侶に、阿弥陀様は実在するのでしょうかと質問したという人の書き込みがあって、その僧侶は、阿弥陀様は架空の存在であると回答したそうです。
それは、宗派の見解なのだろうか、それともその僧侶の個人見解なのだろうか、そこまでは確かめなかったそうです。
その僧侶の回答について、どう思われますか。
もしかして、その質問された僧侶というのは、黒骨さんではないだろうか、と一瞬思いました。
Posted by たかはし at 2008年01月31日 09:03
tenjin95 さま コメントありがとうございます。

親鸞聖人は別のところでこのことを学ばれたんでしょうか・・・>すみません。ちゃんと調べてませんでした。


たかはしさま コメントありがとうございます。

ブログで、浄土真宗の僧侶に、阿弥陀様は実在するのでしょうかと質問したという人の書き込みがあって、その僧侶は、阿弥陀様は架空の存在であると回答したそうです。>単に「架空の存在だ」と言えば 聞いてる人に大きな誤解が生じるのはこの人も知っているだろうに・・・・
「存在するかどうかの問いが 成立しない」ことをこの僧侶の方は言いたかったのでしょうか?
フォローできるとすれば そんなところでしょう・・・
Posted by 黒骨 at 2008年02月12日 00:14
信じることが前提だから、それを疑うという問いは、成立しない、ということですね。
Posted by たかはし at 2008年02月12日 07:51
たかはしさま コメントありがとうございます。

そういう意味ではなくて 
「仏」とは「存在ではない」ということです。
「存在しない」との違いわかりますか?
Posted by 黒骨 at 2008年02月22日 17:02
阿弥陀仏は、存在ではない、のですね。そうすると、何でしょうか。
存在するでもなく、存在しないでもない、ということでしょうか。
もし、そうであるなら、そういうものへの、疑いが晴れる、ということは、どういうことになるのでしょう。
存在するでもなく、存在しないでもない、そういうものに、どのような疑いを持って、そして、その疑いが、なぜ、晴れる、ということがあるのでしょうか。
Posted by たかはし at 2008年02月23日 18:27
たかはしさま コメントありがとうございます。

阿弥陀仏は、存在ではない、のですね。そうすると、何でしょうか。
存在するでもなく、存在しないでもない、ということでしょうか>そういうことではありません。
いろんなことを省いて言えば 仏とは「真実」の別な言い方。皆さんが「真実」とよんでいるものを 私たちは「仏」と呼んでいると考えてください。
Posted by 黒骨 at 2008年02月29日 18:20
通常私達が真実と呼ぶものには、真実である証拠があると思います。あるいは納得できる説明がそこにあると思います。そういうものがないものを、真実とは普通は言わないでしょう。
阿弥陀様に、そういうものがあるとは思えないでいるので、質問させていただいています。
どうして直接的な回答をいただけないのでしょうか。
質問者を煙に巻くような回答をするのはなぜでしょうか。
Posted by たかはし at 2008年02月29日 21:13
浄土真宗は、真の浄土宗、法然の真の教え、という意味だと聞きました。
法然上人は、一点の疑いなく思い定めて、念仏するだけ、他には何もない、と言っておられます。
他に何があるのでしょうか。
Posted by たかはし at 2008年02月29日 21:18
たかはしさま コメントありがとうございます。

ピタゴラスの定理が「存在する」
質量保存の法則が「存在する」
なんていいませんよね。
普通、私たちは「真実」という言葉に対し「存在する」とか「存在しない」という言葉は付けないと思いませんか?
ですから 私は はじめのコメントの中の
<阿弥陀様は実在するのでしょうかと質問したという人の書き込みがあって、その僧侶は、阿弥陀様は架空の存在であると回答したそうです。>
という言葉に対し、存在するとか しないとか 言うこたえ方は 誤解が生じてしまうし、適当ではないとコメントしたんです。

<通常私達が真実と呼ぶものには、真実である証拠があると思います。あるいは納得できる説明がそこにあると思います。そういうものがないものを、真実とは普通は言わないでしょう。>

では 私が仮に 濡れ衣で殺人の容疑者で裁判にかけられたとします。
検察側は 私が容疑者である 証拠をたくさん並べべ、逆に わたしには 身の潔白を証明するものが何一つなかったとしたら 証拠も証明もできない わたしは殺人犯ということになるでしょう。
たかはしさんの思考ならば この場合 人を殺して無くても <黒骨は人を殺した>ということが真実になってしまいます。
誰も私の言うことを信じてくれず、みんなが私を殺人犯だと決め付けたとしても 私が人を殺していないという<真実>は変わらないのではないでしょうか?

もし、私が犯人という証拠しかなければ人は 私が殺したことが 真実とおもうでしょう。それはしかたありません。
もし 私が犯人ではない そのことを知っているものがあるとすればそれは<真実そのもの>ではないでしょうか? 
皆さんが<真実>と呼ぶそれを 私たちは<仏>と呼んでいるんです。

間違っていたらすみません。
わたしには たかはしさんは

「真実」というものがあって その中に 「阿弥陀如来」というものを入れるかどうか?という思考のように見えます。

ですが その たかはしさんが 「真実」と呼んでいるものを 私たちは「仏」と呼んでいるのです。
「真実」のニックネームと考えると分かりやすいかもしれませんね。


他に何があるのでしょうか。>なにもありません。

長々とコメントしましたが 百聞は一見にしかず!
「一点の疑いなく思い定めて、念仏」すれば
わたしが何を言おうとしたのか、そして いかにわたしの説明が拙いかがわかっていただけると思います。
Posted by 黒骨 at 2008年02月29日 22:57
殺人犯だから、殺人の証拠があるのです。殺人犯でなければ、そこに殺人の証拠があるはずがありません。
殺してないのに、そこに殺したという証拠が出てきたという主張があったら、その証拠は真実ではない、捏造されたものである、あるいは、犯人の特定を誤っているということになります。それは真実ではなくて、誤りである、ということになります。
それが、真実、というものではないでしょうか。
黒骨さんが、うまく説明できないということでしたら、宗派では、そこにどういう答えを出されているのか、それを紹介していただけると嬉しいです。
真実とは、存在するものです。それが俗世の一般的な考え方ではないでしょうか。
それを、真実とは、存在ではない、としたら、何なのでしょうか。
それを真実だと、一点の疑いなく思い定めるものである、それが浄土宗における、阿弥陀様という存在ということではないのでしょうか。
俗世と、宗派では、真実の言葉の意味が違ってくる、ということでしょうか。
俗世では、真実は存在するものでしょう。当然そこには証拠があるでしょう。でも宗派では、真実とは、思い定めるもの、だからそこに、それが真実であるという証拠は必要ない、ということではないでしょうか。
また、本当は真実だけれども、現在の科学レベルでは、その証拠を見つけられないでいる、ということであるなら、それは、その時点では、それは真実ではなくて、仮説です。
それを真実だと主張するということは、その仮説を真実だと信じている、ということになると思います。
そうすると、阿弥陀様とは、信じるものである、ということになるのでしょうか。
信じるものであるものに、その存在を疑うということは、それは、信じるものではなくなってしまう。
疑っている人には、信じるもの、は存在しない。信じている人に、信じるもの、は存在する、そういうことになるのでしょうか。
Posted by たかはし at 2008年03月01日 07:00
阿弥陀様とは、死後に浄土に往生させてくださるもの、ですよね。
ということは、それが真実かどうかは、死んでみないと分からない、ということになると思います。
それを信じて念仏する、やはり、この世では、それしかない、ということなるような気がします。
Posted by たかはし at 2008年03月01日 07:13
横から、わからんなりに出しゃばるようだけど・・・

議論を見ていてσ(*_*)は、神仏は自己に潜む心だと思うがなぁ。

例えて言うならば、いくら他に向かってウソを言っても、本当は、それがウソだと知っている自分・・・こおいうのを真実でねえですかい?

論議から外れていたら、すんまへん。m(_ _)m
Posted by at 2008年03月03日 20:34
興味深い議論になっているので横やり入れさせてください。

俗世の真実と宗教の真実という対比は初耳ですけど、科学や推論形式の「命題」と、宗教が追究する真実(真理?)は違うものと思います。
僕は、今でも仏教徒ではないですけど、仮に阿弥陀様の実在を、「動かぬ証拠」みたいに突きつけられても、「じゃあ念仏しようか」とは思わないと思います。

で、草さんのコメントに乗っかちゃいますけど、阿弥陀様の存在にあえて証拠を求めるなら、それは物的証拠ではなく、心に響く感動とか体験がその役割を果たすのではないかと思います。

自分の感動は、必ずしも他者の感動にはならないので、その意味では、今現在、阿弥陀様の実在を疑っている人にとっても、その存在は真実であり真実でない、という言い方ができます。

また別の切り口ですけど、はじめの相談に乗った僧侶の方が、言葉の額面どおりの意味で「阿弥陀様は存在しない」と応えたのではなく、質問者の“出来ることなら阿弥陀様を信じてみたい。でも、確信(決定?)がもてない”という心の揺れを読み取って、あえて質問者が自分を客観的に見られるように仕向けてみた、かもしれないという解釈はどうでしょう?
Posted by hoki at 2008年03月04日 00:30
質問したことに直接回答するのではなくて、質問者自身に、質問した内容を考えさせる、とそういう手法をとることがあるようですね。
そういう手法があってもいいのだと思います。
でも、その際には、回答者自身は、阿弥陀様を、一点の疑いなく思い定める、ことが出来ているかどうか、そこを表明することが不可欠だと思っています。
それなくして、あれこれと、質問者を煙に巻くような回答をする僧侶がいるようです。そこは問題だと思います。
黒骨さんにも、そこが聞きたいです。
また、阿弥陀様は、それを信じる人の心に存在するものである、それが真実ということである、というのであれば、そう言ってもらえればいい、そう思います。何も難しいことではありません。
そこを明言しないということは、つまり、真実には証拠が必要だけれども、それを提示できない、ということに負い目を感じているからではないだろうか、そう思えます。真実という言葉の意味に縛られて、自分でも、そこに疑いを持っているからではないか、とそう私には感じられるのです。
一点の疑いなく思い定めて念仏するだけ、他には何もない、と自信を持って言われたら、質問者は、そこで沈黙すると思います。
そうではなくて、他に何かありそうな説明をするので、それは何か、と質問を続けることになる、そう思います。
Posted by たかはし at 2008年03月04日 07:34
阿弥陀様とは愚かな凡夫を救ってくださるものだと言われます。
そうであるなら、愚かな凡夫には、愚かな凡夫が分かるような言葉で対応する必要があると思います。
高度な、哲学的思索をそこに要求するのは間違っている、そう思えます。
そういうところに、違和感を覚えます。
愚かな凡夫を救うと言っていながら、愚かな凡夫には、およそ難しいことを条件に出す、これはいったいどういうことだろうか、そう思います。
証拠のないものを、一点の疑いなく思い定める、これは、愚かな凡夫には、およそ実行不可能に思えます。
Posted by たかはし at 2008年03月04日 07:43
たかはしさん コメントありがとうございます。

阿弥陀仏は私にとって真実です。
信じている人だけの真実でなく、信じてない人もふくめ すべての人にとっても真実です。
阿弥陀仏の救い(はたらき)は 全ての人に届いています。

私が「存在」という言葉に妥協できなかったのは、神と仏というものの混同を避けたかったからです。
Posted by 黒骨 at 2008年03月04日 12:28
僧侶の方に、あなたは悟っていますか、と質問すると、それには答えられない、という言葉が返ってくることがあるようです。
つまりそれは、悟っている人には、自分が悟っているという自覚さえない、ということなのでしょう。
ということは、そう答える方は、自分は悟っているということなのでしょうが、その方の言動を見ると、およそ悟っているようには見えないことが多いようです。
また、私はまだまだ修行中の身で、悟りなどとんでもない、とおっしゃる方もいます。そういう方には好感が持てます。
黒骨さんの宗派では、一点の疑いなく思い定めることが出来ている、と公言する方は、どのぐらいいらっしゃるのでしょうか。
そして、黒骨さんは、いかがでしょうか。
一点の疑いなく、ということは達成できていないが、その疑いの思いは、その都度、消している、ということでしょうか。
そのためには、阿弥陀様は真実である、と考えることが必要になる、ということのような気がします。
信じ切った人には、それはまぎれもない、真実となる。そのことに異論は全くありません。
だから、それは全ての人に当てはまると思います。
それはすべての人にとって、真実であると思います。
ただし、疑っている人には、どこまでいっても真実とはなりえない、ということであるなら、それでは、愚かな凡夫を救えることになるだろうか、という疑問が残ります。
愚かな凡夫を救うのはなくて、愚かな凡夫が賢者に変らないと阿弥陀様は浄土に往生させてくれない、ということになってしまいそうです。
そこが釈然としないのです。
愚かな凡夫を救うのであるなら、信じようと、信じまいと、念仏しようと、しまいと、浄土に往生させてくれる、ということが理想ではないでしょうか。
とすると、阿弥陀様の力は、その理想を達成できるほどには強くはない、ということになってしまいそうです。
宗派の方は、実はその点を知っていながら、あえて触れないようにしているのではないだろうか、とそんなことさえ考えてしまいます。
これは、私のひねくれた性格ゆえのものなのでしょうが。
Posted by たかはし at 2008年03月05日 07:12
信心が足りんからわからんのですが、何で阿弥陀如来さんにこだわるのか、よぉ~わかりまへん。

どうせ「すがる」のなら大日如来さんが諸仏の根本と聞いてるので、そっちに「すがった」方がええんでねえですかい。?
阿弥陀如来さんも含まれてると思うが・・

あっ・・別にどこの仏さんとか如来さんがエライとかどうとか言うつもりは、さらさら有りまへんので、誤解無きよう。

σ(*_*)は、どこでどの仏さんを拝もうが、神様を拝もうが、根本は一つで大日如来に通じると遍路で教わりましたので・・・

話題がずれていたら、すんまへん。
Posted by at 2008年03月05日 20:43
たかはしさま コメントありがとうございます。

これからコメントすること 「念仏」「信心」「阿弥陀如来」「他力」は うちの宗派のとらえかたが多く含まれています。はじめにご了承ください。

証拠のないものを、一点の疑いなく思い定める、これは、愚かな凡夫には、およそ実行不可能に思えます。>鋭いですねえ。例外もあるかと思いますが、多分、あたしたちには実行不可能だと思います。
このことを「極難信」といいます。



「私が信じたら、その代償として救われる」、
「私が念仏申したら その代償として救われる」
ということではありません。

うちの八代目蓮如さまは
「信心」という二字は「まことのこころ」と読むことができる。
「まことのこころ」とは行者のわろき自力のこころにては助からず、如来の他力のよき心にて 助かるがゆえに まことの心とはもうすなり」といわれました。

また
「聞くも他力より聞き、思いさだむるも (如来の)願力によってさだまるあいだ、凡夫のはからひの、塵ばかりも、よりつかざるを他力とはいふ」

他力の信心とは 仏の真実心をあたえられる(仏から信じる心すらあたえられる)ということです。

「極難心」ということも、単に難しいという意味でなく、「信」は 私たちのはからいからは絶対に起こすことはできないが、如来からめぐまれる 他力回向の信心をしめしています。

愚かな凡夫を救うのであるなら、信じようと、信じまいと、念仏しようと、しまいと、浄土に往生させてくれる>
これは宗派による解釈のちがいでしょうね。
あらゆる衆生を往生させるのが阿弥陀如来です。救いに条件は付きません。
ただ そのことに 今、気付いている人と気付いていない人がいるだけです。
ですから 私たちの宗派にとって 念仏は「感謝」をあらわすもの であって 往生の手段ではないんです。

宗派の方は、実はその点を知っていながら、あえて触れないようにしているのではないだろうか、とそんなことさえ考えてしまいます。>
ほとんどの場合 あえて触れないのは 他宗派に対する配慮です。
自分の宗派の教義をあまり強調すると他宗の方からみて「うちの宗派を否定した」と誤解を招く場合があるのです。
Posted by 黒骨 at 2008年03月06日 04:04
慈悲深いお方が、信じる人にしか信心を与えない、そこに違和感を覚えるのです。
愚かな凡夫は、愚かな凡夫のままでは、信心を与えてもらえない。
自らが、愚かな凡夫であり、もはや阿弥陀様にすがるしか道はないと気づいた人にしか、信心を与えない。
他力といいながら、実は、それは自力だろう、と思うのです。
自らの愚かさに気づいて、阿弥陀様におすがりするしか道はないと自覚して、一点の疑いなく思い定めて念仏する、これは自力の修行ではないでしょうか。
慈悲深いお方におすがりする、他力の教えと、極難信、極めて難しいということは、矛盾する気がしてしまうのです。
Posted by たかはし at 2008年03月06日 06:44
たかはしさんは、文が上手いし要点がしっかりしとると思い、σ(*_*)も同感です。
特に上の2行で、全てを表してると思う。
Posted by at 2008年03月06日 08:20
たかはしさま コメントありがとうございます。

信じる人にしか信心を与えない>
これは逆です。
「あたえられたものを 受け取る人と 拒絶する人がいる」
と 理解すると分かりやすいかもしれません。

凡夫であるのに凡夫の自覚が無いと 人は 自分を愚かと思えないので 自分の力を頼みとしてしまいやすいということです。任せきれないということです。

浄土真宗がやさしいというのは いかなるものも 持ち前の才覚に条件をつけられず 信を受け取るばかりで救われる ということです。

他力とは 往生する 因と果が仏の側にあることをさします。

念仏を「行(往生するための条件)」として とらえたなら自力です。そのような宗派もあります。
ですが うちの宗派では「行」としてはとらえていません。感謝です。

「どんなあなたであろうと救う、念仏申さなくても救う、たとえ信じていなくても救う、そのままのあなたを救う。」
はじめて この言葉を聴いたとき 私はただ喜んでました。
哲学的な思考が苦手だからでしょうね。

たかはしさんが このブログを見ていることも コメントして下さることも 一枚起請文や歎異抄を読んだということも 
「全て自分の判断」と思うこともできますし たかはしさんの自由ですが
「阿弥陀如来の人を悟りに導く働きが たかはしさんにも届いているから」
と受け取ることもできるのではないでしょうか。
私はそう思っています。
Posted by 黒骨 at 2008年03月06日 11:50
また、しゃしゃり出て話しの腰をへし折りますが・・

悟りって何でしょう?

σ(*_*)は「悟りとは何か?悟ったらどうなるか?」といろんな人に聞いてみました。

「なあぁ~んにも、こだわらなくなり、何があっても動じなくなる」というのが答えでした。

阿弥陀如来の悟りって何でっか?
Posted by at 2008年03月06日 16:17
草さま コメントありがとうございます。

もともと言葉では無いものなので いろいろな表現がなされていますねえ。

私は 「人が真実と一つになること」と聞いています。

でも この表現にこだわりがあるわけではありません。
草さんは どんな表現がぴったりきますか?

それと「阿弥陀如来の悟り」という何か特別なものはないと思います。
Posted by 黒骨 at 2008年03月06日 17:44
私も横から失礼します。
>因と果が仏の側にある
我々が自身で自由意志と信じて疑わないものも必然である可能性、決定論的なことですかね。
科学は万能ではないので、観測することによって結果が影響を受けてしまう小さな世界まで完璧に予測することはできず、思考が機械的に生まれている可能性があるとしても証明できないわけですが、もしかすると今の私の思考・行動は生まれたときから全て決まっていたのかもしれません。
それでも私は自由だと思って行動する、悩むことしかできないわけです。結果は決まっているのだとしても知ることはできないのであって、そのことは行動を束縛しない。自由でしか有り得ないのに結果が決まっているという不思議な話。
その結末が往生なのでしょうか。
Posted by 猫七三 at 2008年03月07日 01:08
黒骨さんの宗派では、信じていなくても、念仏しなくても阿弥陀様は救ってくださる、ということになっているのですね。それは初めて聞きました。
それでしたら、納得できます。
でも、それだったら、なぜ、教えを広める必要があるのでしょうか。
何もしなくても、愚かな凡夫を救ってくださるのですから、布教活動する意味がないような気がします。
Posted by たかはし at 2008年03月07日 07:08
ありがたい仏様の存在を知ってほしいから、布教活動をしているのである、ということでしょうか。
でも、悟りを得た仏様には、自分の偉さを知ってほしいなどという気持ちはないと思えます。そんなことをする人がいたら、やめてほしいと思っているような気がします。
阿弥陀様の凄さを吹聴することは、阿弥陀様の意に反するのではないだろうか、なんてことまで考えてしまいます。
Posted by たかはし at 2008年03月07日 07:14
苦しみ悩む人に、大丈夫、阿弥陀様が救ってくださるのだから、と安心させるために、布教活動をしているのである、ということになるでしょうか。
でも、そうすると、それを信じられない、という愚かな凡夫は、どうしたらいいんだろうか、またその問題に戻ってしまいますね。
そこが、信心というものの限界、ということでしょうか。それは宗教の限界であるのかもしれないですね。
Posted by たかはし at 2008年03月07日 07:18
黒骨さん

> 「人が真実と一つになること」

ううむうぅぅ・・やっぱり難しい言葉やなぁ・・
σ(*_*)は「何にもこだわらなくなった状態」という風に言ってくれた方が、具体的でわかりやすい。

しっかしぃ、、ここ最近賑わってまんなぁ。
ええ事だと思います。(^O^)

「たかはし」さんが言ってる疑問は、σ(*_*)も思っており、一番わかりやすいなぁ。
Posted by at 2008年03月07日 08:54
猫七三さま コメントありがとうございます。

コメントしてくださったことの返事にならなかったら またコメントしてください。

諸行無常(すべてのものは常に移り変わる)のこの世界において 何時であっても どこであっても どんな状況であっても 変わらないもの、それを私たち佛教徒は「真実」とよびます。
たとえば、「因果の法則」なんてのもそのひとつです。(物事は 原因なしに結果だけ現れることはない。)この当然のどうりを捻じ曲げるような ことを私たちは「迷信」とよびます。
お釈迦様は因果の道理をもって 「運命論」を退けられたといわれています。私も「運命」を信じません。

たかはしさま コメントありがとうございます。

それだったら、なぜ、教えを広める必要があるのでしょうか。
何もしなくても、愚かな凡夫を救ってくださるのですから、布教活動する意味がないような気がします。>知らなければ「今の救い」にならないからです。


<そうすると、それを信じられない、という愚かな凡夫は、どうしたらいいんだろうか、またその問題に戻ってしまいますね。>

「どんなあなたであろうと救う、念仏申さなくても救う、たとえ信じていなくても救う、そのままのあなたを救う。」以上「それを信じられない、という愚かな凡夫」もそのまま救われます。

何となく気付いてらっしゃるかもしれませんが、
「どんなあなたであろうと救う、念仏申さなくても救う、たとえ信じていなくても救う、そのままのあなたを救う。」といわれてしまうと もう その救いから逃げようがありません。
その救いや如来を否定をしたとしても 
「救いを否定しているあなたをそのまま救う」
ということになるわけです。

普通の宗教なら
<そうすると、それを信じられない、という愚かな凡夫は、どうしたらいいんだろうか、またその問題に戻ってしまいますね。>
ということになるでしょうが 阿弥陀如来には通用しないんです。
「信じ無くても救う」以上「ムリに信じようとする必要」がありません。
「疑いが晴れないものを信じた」と言ったところで それは「信ているフリ」であって だませるのは「人」だけでしょう。

ps:黒骨だけの意見になると思いますが
私は 布教活動なんて立派なことは考えたことがありません。
単に佛教に対する「のろけ」です。
すごく「面白いなあ」と思ったり「感動したり」、「すげえなあ!」と思ったことって ひとりで思ってってもつまらなくないですか?
こんな事書いたら また、まともな坊さんのみなさまから「不謹慎だ!」っていわれそうですねえ・・・。
Posted by 黒骨 at 2008年03月10日 19:02
お釈迦様が否定した運命論というのは何をやっても同じ結果になるということですよね。AとBという二つの選択がある時どちらを選んでも結果は同じCだと。
そのようなことは有り得ないと私も思います。違う選択をすれば違う結果にならないと変です。
決定論に対する自分の理解が正しければ、それはAとBを選ぶということ自体がない、最初からAなのでCというものです。
生まれたら死ぬということもこれに含むと思います。
人間の精神にまで持ち込むのは無理があったかも知れません。でも私が今悩むということも生まれたことから地続きだと思うんですよね。ずっと続いてきたことだと。私は自由だと思っているけど、生きた時間の中で様々なものを受け取っているので、本当は自由じゃなくて・・・コップの中の水みたいに周りの形に沿って自分の形になっているだけじゃないかなぁと。
Posted by 猫七三 at 2008年03月11日 00:03
信じられない、と思い悩む凡夫も、救われるのである、ということが、それを信じられなくて思い悩んでいる凡夫にとって、救われることになるでしょうか。
そのような愚かな凡夫も、死んでみて、なるほど浄土に往生させていただけたと知ることになったとしても、生きている間には、生きている今には、思い悩んでいるばかりで、救われていることにはなりませんよね。
信じ切れる素養がありながら、知らないでいる人に対して、教えを届けているのである、それを信じ切れない人に対しては、もはやどうしようもない。しかし、どんな人にも、それを信じ切れる素養がある、とそう信じ切って布教活動をしているのである、ということであるなら、なるほど、と思える気がします。
だから、どこまでいっても、信じきる、他には何もない、という法然上人の言葉が、全てである、そう思えます。
そこに、何が別のものがあるかのような説明をしようとするので、難解で、堂々巡りのような言葉になってしまう、そんな気がします。
Posted by たかはし at 2008年03月11日 07:48
私は、黒骨さんに、「不謹慎な」発言を期待しています。
このブログのタイトルから受ける印象どおりの、不謹慎な発言を、僧侶の本音を聞きたいと思っています。
これまでの回答において、ノロカメさんは、自らが、一点の疑いなく信じ切れているかどうか、について明言されていません。
それを、出来ている、出来ていないと明言することは宗派においてタブーなのでしょうか。
もしそうだとしたら、そんなタブーに従うというのは、黒骨さんのイメージに合わないような気がします。
そこが、私にとって、ちょっと拍子抜けするところです。
不謹慎発言の連発を切望しています。
Posted by たかはし at 2008年03月11日 08:10
「ノロカメさん」は、「黒骨さん」の誤りです。他のブログで宗教談義に花が咲いている相手と混同してしまいました。すいません。
Posted by たかはし at 2008年03月11日 08:13
たかはしさま コメントありがとうございます。

そこに、何が別のものがあるかのような説明をしようとするので、難解で、堂々巡りのような言葉になってしまう、そんな気がします。>
そうですね。すみませんでした。
これからも お聴聞を重ねて下さい。
Posted by 黒骨 at 2008年03月11日 12:52
これまでの回答において、ノロカメさんは、自らが、一点の疑いなく信じ切れているかどうか、について明言されていません。>

おっと! また書き忘れるところでした。(汗)

私は 信じていますが、信じたいと思ったことはありません。
「信じているかどうか?」なんて どうでもいいと思っています。
正直 訊ねられるまで そんなこと考えたこともありませんでした。
ただ喜んでいるだけです。
Posted by 黒骨 at 2008年03月11日 13:03
一点の疑いなく信じきれている、ということですね。
とてもうらやましいです。
それを信じ切れた理由は何だと考えておられますか。
その教義に触れて、そこに全く疑いを持たなかった、ということでしょうか。
ボクシングの内藤選手が、子供時代にイジメにあっていたことを本に書いたそうで、そこでは神様はいないと言っていたようです。
でも、現在、チャンピオンとなった内藤選手は、神様はいると思いますかと質問されて、神様はいますよ、と答えていました。
不幸だと感じているときには、神様なんていないと思い、幸福なときには、神様はいる、と人は考える、そう思いました。
私が、信じ切れないのは、不幸だからだろうか、なんて思いました。
黒骨さんは、僧侶になれた喜びの中にいる、とそんなことを感じました。
Posted by たかはし at 2008年03月12日 06:39
黒骨さま、みなさま失礼いたします。
なかなか興味深いお話しで、勉強させて頂いています。
「ほとけ」の語源を拝見しまして、いわゆる「オタク」を想像してしまいました。

そして色々考えてみますと…
オタクは漫画やアニメに感動して、その感動を共有したくていろいろ活動を行います。
そして数千年後の未来の世界…
感動を共有する方法(文芸作品)が「教典」となり…フィギュア等が「ご本尊」となり
『萌&燃』は世界共通の価値観として認識されて…世界から日本が聖地とされたりされなかったり。
真面目に信心されている方々には失礼ですが、そんな不謹慎な事を想像して楽しんだ次第です。

>阿弥陀様
全ての人をお救い下さる…存在するか否か不明な存在?
形があるようで形がない…なんとなくソフトウェアっぽいですね。
悩みながら行動不能(無限ループ)になったフロントエンドの顕在意識…
それを強制停止してくれるコマンドラインのプログラムが阿弥陀様っぽいかもと思う次第です。
人の思いに形はないけど、それでも「ある」ものと考えてみれば、自分は人が生み出した阿弥陀様も「ある」と思うのです。

>難行苦行
夏の暑い日にたくさん汗をだせば、一杯の冷水が美味しいと思います。
なんというか…頑張れば頑張ったほど、達成感は感動的ですよね〜。
「感動=悟り」とすれば、難行苦行は感動したいからする事と思うのです。
真夏に冷えたビールで乾杯する…って事を「悟り」と思っちゃダメですか?(^^;)

なにやら散文にてまとまりませんが、今回はこれにて失礼いたします。
Posted by AKIRA at 2008年03月12日 21:15
「真実」というのは「引力それ自体」のような、あるんだからしょーがないというレベルのものなんですかね。物体があるから引力が生じるんだとか力を伝える何かがあるんだとかいう話をしなくても、引力自体は確かにある、みたいな。
例え理解が間違っていたとしても「それ自体」はあるんだという、そういう感じですか?
Posted by 猫七三 at 2008年03月12日 23:15
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